源智の井戸
松本市特別史跡
源智の井戸
宮村町一丁目にある『源智の井戸』(げんちのいど)は、松本市内の名水のひとつで、松本に城下町が形成される以前から飲料に用いられた古い歴史を持っています。
井戸の名の由来は、安土桃山時代の天正年間(1573~1592)に信濃深志城(現在の国宝松本城)城主、小笠原貞慶(おがさわらさだよし)の家臣だった河辺縫殿助源智(かわべぬいのすけげんち)が所有者であったため、『源智の井戸』と呼ばれるようになりました。この井戸の周辺は、女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)の複合扇状地で、市内でも有数の湧水地で地名を源地といいます。
天保十四年(1843)に書かれた「善光寺道名所図会」(ぜんこうじみちめいしょずえ)によると、井筒の径は八尺(約2.4メートル)、高さ九寸(約27センチメートル)で『当国第一の名水』で松本の町の酒造業者はことごとくこの水を使い、歴代の領主は制札を出して『源智の井戸』の清水を保護したといいます。
また、享保年間(1716~1736)に、源地を水源に中町、本町に引水するようになっても、宮村の『源智の井戸』だけは引水を許さなかったといいます。
明治十三年(1880)の明治天皇の松本御巡幸の際には、この井戸の水が御膳水として使用されました。井戸の敷地内には「明治天皇松本御膳水」の石柱が建立されています。
平成元年(1989)に現在の井戸の環境に整備されました。井筒が大きな八角形の木製で上部が解放された形状となっているのは「善光寺道名所図会」の史料を参考に設置されています。
平成二十年(2008)に、「まつもと城下町湧水群」として、環境省の「平成の名水百選」に認定されました。また、平成二十七年(2015)には「名水百選」選抜総選挙を実施した結果、「観光地として素晴らしい名水部門」の全国第三位になりました。『源智の井戸』は「まつもと城下町湧水群」を代表する井戸でもあります。
源智の井戸を守る会
源智の井戸を守る会は、令和6年5月に解散しました。
(源智の井戸を守る会は、地元宮村町一丁目町会の有志で構成する、ボランティア団体です。文字通り源智の井戸を守るため、毎朝五時半に集まり、井筒を拭いたり周囲のごみを拾うなどの清掃を行っています。
源智の井戸は、松本に城下町が形成される以前から飲料水として使用されてきた名水ですが、市の史跡に指定された当時は、水面が地表下にまで下がっていました。
地元住民を中心に、「井戸を復元し後世に残したい」という請願運動が起こり、平成元年に周辺環境の整備とともに新たなボーリングを行い、地下40メートルの水脈から湧出する井水として復活しました。
「源智の井戸を守る会」は、復元工事のあと間もなく、この井戸を自主的に管理を行うために発足し、今日も毎朝清掃を行っています。)
史料 善光寺道名所図会
源智井[宮村町ニあり、]、井筒亘八尺、高九寸、清泉湧出して当国第一の名水とす、松本街中の酒造は尽く此水にて制するなり、殊勝の清水なるゆへ、代々の領主より制札を出し給ふ、井戸の制札は稀なりといふ、此辺往古ハ庄内宮村といへり、天正年間、小笠原侯再び深志へ入部ありて、御城普請の節、宮村の地へも町々を引移し給ふ、其後石川家時代にも御城町家等を専ら修補し給ふ、石川家長臣渡辺氏が井水の書札并材木を賜りし時の書札などを持伝ふ、源智の子孫今なほ宮村町に住居して河辺氏を名乗れり、
源智の井戸関連年表
天正年間(1573~1592)=小笠原貞慶(さだよし)の家臣、河辺縫殿介宅内の井戸が知られる
文禄三年(1594)=石川康長、不浄を禁じる制札を掲出
文禄九年(1696)=源智の井戸の利用をめぐって、酒造屋高島屋から庄屋に詫状がだされる
〇このころ中町に、酒造業・藤森太兵衛により、お玉が池付近を源泉とする水道を敷設
明治十三年(1880)=明治天皇御巡幸にあたり、御膳水として使用
明治三十五年(1902)=篠ノ井線開通で、機関車給水用の水源を埋橋から引水
大正八年(1919)=松本市は島内青島を水源として上水道敷設を決定
大正十三年(1924)=上水道給水開始、井戸の飲料水としての使命が終わる
昭和八年(1933)=長野県史跡に指定
昭和二十三年(1948)=源地に水源地を新設
昭和四十二年(1967)=松本市特別史跡に指定
平成元年(1989)=修復整備工事を実施
平成二十年(2008)=環境省「平成の名水百選」に「まつもと城下町湧水群」として認定
平成二十七年(2015)=環境省「観光地として素晴らしい名水部門」の全国第三位に選ばれる
駐 車 場
〇専用の無料駐車場は、ありません。
〇井戸の北側に1台のみ、停車できるスペースがあります。
〇有料駐車場は、井戸の北方にある、中町通りの「蔵のある街 中町駐車場」がもっとも近い場所(徒歩で3分)になります。
場 所
【所在地】
長野県松本市中央三丁目七四一番地ホ
【自動車での行き方】
松本駅東口側の駅前通りをあがたの森公園方面(東)へ進み、6個目の「宮村町信号機」(西村時計店角)を左折(北)します。130m進み1個目の四つ角を右折(東)します。40m先の右側に井戸があります。
【徒歩での行き方】
徒歩で松本駅から10分かかります
松本駅東口から北東へ向かい「公園通り」を通ります。1個目の「神明町信号機」を直進します。その先に、2個目の信号機(左側に開運堂)があります。ここも直進し高砂通り(たかさごどおり)に入ります。ここまで来ると前方に瑞松寺(ずいしょうじ)の屋根が見えて来ます。このまま直進すれば、井戸は300m先のお寺の手前にあります。
源池井沿革
古昔宮村の旧家河邊源智の所有に係る井なり
しより源智井の名を得たりと傳へらる 享保
の頃迠は松本南町全体とも朝夕此井水を汲み
て飲用したるものなり 其後仲町本町何れも
別の源泉を求めて引用せるも此井のみは引用
を許さず附近一帯の需用に當てられたり 善
光寺道名所圖繪にも當國第一の名水とす松本
市中の清酒は盡く此水によりて製せられ殊勝
の清水なるが故に代々の領主より制札を出さ
れたりと見ゆ 明治十三年六月
天皇御巡幸の際畏くも御膳水の光榮を忝ふせ
り 同四十四年市より引水の意味にて二十四
名に讓渡せり 大正十三年上水道の敷設によ
り自然不用となれり 昭和八年本縣より史蹟
として更に翌九年
明治天皇聖蹟として保存顯彰の必要を認めら
れたり 今茲に所有者より市へ寄附せらる
に當り右河邊家当主久雄より修築費の助力あ
り市は旧態を調査し修築の上此遺蹟を永遠に
保存することとせり
昭和十一年九月 松本市長 小里頼長
寄附者
今水太吉 奥澤俊次郎 吉澤嘉七 青柳善八
荻原力太郎 岡村や十て 髙見實五郎 佐原新一朗
細萱茂一郎 大野幸重 中村弥平 宮坂彦四郎
細萱兵三郎 太田 實 安田銀行 宮下祐藏
徳本文生 神田慶次郎 松尾五兵衛 下川治平
奥澤喜十郎 横山政治 寺村治郎衛 平林喜三郎