深志神社
御祭神・御由緒
御本殿は、宮村宮と天満宮の二殿あります。御祭神は宮村宮が建御名方富命(たけみなかたとみのみこと・お諏訪さま)、天満宮が菅原道真公(天神さま)をお祀りしています。
宮村宮と天満宮の創祀は、信濃国守護・国司であった小笠原氏の信仰と深く関わります。
社伝によると、宮村宮(宮村大明神)が信濃国府中の井川城に居館した小笠原貞宗公により、その丑寅(北東)にあたる、長沢川の北端、捧荘庄内郷宮村の地に、諏訪明神の霊夢を受けて南面に社殿が造営され、祀られたのは南北朝時代初め暦応二年(1339)九月九日でした。
その後、永正元年(1504)小笠原氏は、深志城(のちの松本城)を築いて移るに及んで産土神と崇敬し、社殿を西面に直し、城の巽(南西)の鎮護神とされました。
一方、天満宮は、小笠原貞基公が応永九年(1402)、居館である井川館近くの鎌田の地に京都・北野天満宮より勧請されていましたが、のち江戸時代の慶長十九年(1614)六月二十五日(菅公の御誕生日)、後裔である小笠原秀政公が、宮村明神の北側にさらに勧請され、並び祀られました。
そののち、両宮は「宮村両社・宮村大明神・宮村神社・宮村天満宮・深志天神」などと称され、お城と城下町の鎮護の神社として歴代城主により篤く敬われました。そして正式な社名を、天保十二年(1841)に京都・神祇道管領長上吉田家の認可を受け、「深志神社」と定めました。
社格は明治五年に郷社、昭和三年には御大典記念昇格により県社に列格しました。また昭和四十一年には神社本庁別表神社に加列しました。
宮村宮
御由緒の記述によれば、諏訪の祭神である建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)をまつった宮村大明神が先ずあって、のちに鎌田から天満宮が勧請されたことがわかります。
江戸時代の様子は、『善光寺道名所図会』(嘉永二年(1849)刊)の「宮村大明神」の項に描かれています。
御本殿は南側に宮村宮(お諏訪さま)、北側に天満宮(天神さま)が祀られています。
現在は宮村宮例祭は、宮村町一丁目・二丁目の約百五十戸の氏子が神事・祭事を行っています。
史料 善光寺道名所図会
○宮村大明神[城下の辰巳の方にあり、]祭神上諏訪健御名方命
○天満宮[同社に並ぶ、]慶長の頃、小笠原侯鎌田村より爰に天神を勧請して、宮村明神の社壇の北に建並べたまふ、大門先に馬場あり、天神馬場と号す、京都北野の右近の馬場を摸せしとかや、末社は本社の左右に列して図の如し、社内に万商守護神の祠あり、事代主を祭る、此例祭はむかしより正月十一日初市立とて、塩をひさく事有、松本より三里程西に一日市場といふ在所に、蛭子の社人とて三、四人あり、初市には地蔵清水といふ所にて塩をひろめしが[地蔵清水いまハ城内となれり、]今ハ本町二丁目に仮屋を搆へ、神輿を渡し、其床にて天神の社人塩をひろむる事を執行ふ、当日未明より初市立とて、遠近の貴賎美服を粧ひ、袖を連ねて群参するも、実初春の寿喜なるべし、
宮村町町会行事
深志神社例大祭(天神祭り)
七月二十四日 前夜祭
七月二十五日 例大祭
宮村宮例祭(宮村さま)
九月八日 宵祭
九月九日 例祭